ほくせいよいちPTAひがしにほんOBかい

北星余市のやり方でやってやる

1997年卒/NHKディレクターの北星魂

かないよしすけ

profile

かない よしすけ

1976年2月生まれ 千葉県出身

地元の高校を1年で中退

1994年 北星余市高校に30期生として入学

卒業後はTV番組制作会社「テレビマン・ユニオン」を経てNHKへ

2015年8月よりNHK福島に異動。


★卒業生キラ星インタビュー★


 金井くんに初めて会えたのは、連日の猛暑が続いていた2015年7月15日の朝のこと。NHKディレクタ―として多忙なスケジュールの中、待ち合わせ場所の渋谷ハチ公前に足を運んでくれました。

(聞き手:PTA白土隆)



「僕、母校の北星余市にロケで入ったことがあるんですよ。」

 懐かしそうに顔をほころばせた金井くん。それは、2007年にTBS系で放送された「全日本グレイトティーチャー列伝」という番組の中で、当時新任の本間涼子先生が取り上げられた時のこと。“猛獣の檻”の中で初めての担任を受け持つ26歳ほんまちゃんの奮闘に密着するという企画。

 ディレクターとして現場を指揮する金井くんは、北星余市卒業から10年目の31歳でした。
 当時はNHKに移る前で、在籍していたのは「テレビマン・ユニオン」という、テレビ番組制作の分野では日本の草分け的な存在といわれる会社です。


―テレビマン・ユニオンって、どんな会社なんですか?
「素晴らしいんです。北星余市みたいな会社です。まず学歴・年齢・国籍不問。面白いことを考えることが出来る、クリエイティブな人であればいいということで、門戸が広い。世の中の価値観に縛られず、『他と同じじゃ面白くない』っていう人が集まるんですよ。だから面白い人が沢山いました。有名なところでは映画監督の是枝さんとか。」

 そんな素敵な環境で活動していた金井くんでしたが、あるNHKの番組制作がきっかけとなって誘いの声がかかりました。

―NHKへの移籍を決めた時の気持ちは?。
「揺れましたね。北星余市を2度も出てしまっていいいんだろうかと(笑)。ただ、NHKに行けば、知らない世界がもうひとつそこにあるんだろうなって思ったんです。」

  NHKでは報道局に配属となった金井くん。「おはよう日本」の日曜日担当ディレクターとして毎週土曜の夕方から泊まり込みで朝の番組を出すなど、多忙な日々が待っていました。そんな中でも、ある種の手ごたえを感じるようになったといいます。

「やっぱり報道に行ったというのが大きかったですね。前の会社でバラエティーや歴史番組、海外紀行ものとかは沢山手掛けましたけど、NHKでは目の前の人間の生の声や、今を切り取ることが出来るようになりました。」

 一方、学歴不問というおおらかな社風のテレビマン・ユニオンに対し、NHKでは学歴の壁を感じることも少なくなかったようです。高卒で最初からディレクター職で入った金井くんは、NHKの長い歴史の中でも珍しい存在といえます。
 そんな彼が、その壁とどう向き合い、克服していったのでしょうか。


“北星余市の金井”という軸足で立っている。


 学歴偏重の社会に対する反発心を、金井くんは子どもの頃から持っていたようです。ご両親もお姉さんも、中高一貫から大学へというエリート一家。そんな中、小学校5年生のときには塾に通うためという理由で、大好きな野球を辞めさせられたこともあったそうです。
 高校1年生になったある時、金井少年は突然学校を辞める決心をします。親や周囲のどんな説得にも意志を曲げない、15歳の反乱でした。


「周りが『行け』と言っても、自分が『行かない』って身体を動かさなかったら辞められる、自分で人生選べるんだと初めて気づいちゃったんですよ。」

 辞めた後は、演劇をしたり文章を書いたり街角でギターを弾いたりという活動を続けていた金井少年。しかし、18歳になったとき「とにかく高校は出てほしい」というご両親の強い要望に応えることになります。

―北星余市には、どうやってつながったんですか?
「北星余市を見つけて来てくれたのは母親です。つい支配的になるからこの息子とは離れて暮らした方がいいと判断したんだと思います。遠い北海道。最初は“檻のない牢屋”に入ったようなつもりで、3年間我慢しておつとめすればいい、みたいな気分だった。ところが、入ってみたら『こんな天国があったのか!』と、もう驚いちゃって(笑)。
 まる2年間くらい学校に行ってなかった僕は、世の中のいろんな人に『なんで他の子と同じように学校に行かないの』というような目で見られるから、日中に外に出るのが面倒くさくなって、真夜中に出歩くようになった。それに引きかえ、北星余市は何をしてもまず『いいね』と言ってくれる。家でギターを弾いて、騒音だと苦情を言われてたのが、寮でギターを弾いてたら、みんな『もっと歌って、あれ聴かせてよ』とか言ってくれる。こんなに俺のことを認めてくれるんだって嬉しくなる。そこは決定的な違いでしたね。」


  北星余市で生徒会長になった金井くんは、みんなを楽しませるアイデアマンとしてのセンスを存分に発揮します。現在でも続いている『放課後ライブ』を立ち上げたり、小樽のFM番組でパーソナリティーを務めたりというクリエーターぶり。卒業式の答辞を音楽で表現したのも、彼が最初でした。ギターを弾きながら、涙ながらにオリジナル曲を熱唱するその姿は、今でも語り草となっています。

「北星余市はユートピアでした。」

 卒業後、周囲の勧めもあって一度は大学に進学した金井くんでしたがすぐに行かなくなり、結局中退することになりました。学歴偏重がいやで否定してきた彼にとって、ご両親と同じような大学進学は自己矛盾でしかなかったのかもしれません。
 その後、映画プロダクションやテレビマン・ユニオンを経てNHKに入社した金井くんが、その大きな組織で戦い抜くために武器にしたもの、それは他ならぬ北星余市だったといいます。


「例えば、局なんか行ったら本当にみんな東大・京大な訳ですよ。すごい頭のキレもよくて出来る人もいる。そういう人と自分をどうしても比べてしまうこともあるんですけど、そういう時に立ち返るのが北星余市。僕はただの高卒じゃない。北星余市を出てるんだ。学力的にビハインドであったとしても、人間的には絶対に負ける訳がないって思える。

 もう軸足になってるんですよね。“北星余市の金井”という軸足で立っている。どこかにちょっとふらふらと行ったとしても、ここに戻ってくれば、自分の信じたものとか大切にしているものとかがちゃんとある。
 世の中、自分さえよければっていう風潮がありますよね。ひとを助けてなんかいられないとか、ひとからかすめ取ってでも生きていかなきゃとか。僕にとっては北星余市を出ているということが『セコいことは出来ない』『カッコ悪いことはできない』という想いに繋がっている。不器用で遠回りでもそっちを選ぶっていうのが北星余市で経験したことで、そういう人が今の社会で必要だと感じます。有名な大学を出てどうしようもないことをしている人もいっぱいいますよ。そんなのより、よっぽど崇高じゃないですか。」


北星余市依存症に苦しむ時期が1~2年はありました。


―何だかすごい。北星余市にいたのはたったの3年間なのに、それが今も金井くんの人生の根っこになっているように感じます。
「根っこと言われば、そうかもしれないですね。確かに北星余市はたったの3年間ですけど、卒業後に北星余市依存症に苦しむ時期が1~2年はありましたし。もっと北星余市にいたかった、北海道にいたかったなぁっていうね。そういう状態を脱しても、例えば壁にぶち当たって弱気になりそうな時、北星余市の仲間の顔がちらっと思い浮かんだりする。ここで負けてられないって思わせてくれる。
 実は3年間は大した根は張ってないんですよ。その後、一人ですごい根を生やしたんですよね。北星余市という根っこを。」

―今言ってくれた「北星余市依存症」についてもう少し聞かせてもらえますか。その状態からなかなか抜け切れない卒業生は今もいる。それは、本人も親も苦しいだろうと思う。せっかく北星余市でキラキラ輝いて卒業したのにって。
「大学でも仕事でも、なぜやめちゃうのかっていうと、そこがやっぱり居心地が悪いからですよ。北星余市入学前に、居心地が悪くて引きこもったり不登校になったりしてた、そっちの世界じゃないですか。そこにまた戻りなさいって言われたら、やっぱり続かないですよね。
 北星余市に集まる子の多くは、今の世の中の歪みや矛盾に対して違和感があって、拒否反応としてつっぱったり引きこもったりするんだと思う。それは素直な感情だし、ねじ曲がった世の中に無理に自分をあてはめようとする必要はないと思うんです。北星余市依存症に変に蓋をしないで、ちゃんと向き合った方がいい。思い出していいんです。自分は確かにあの場所で輝けていたなって。その環境って探せば世の中にあるんですよ。僕の前の会社みたいなのが。そういう環境だったらキラキラできるんです。
 それを見つけるまで、根っこをじっくり育てる時期があってもいい。むしろ、生きづらい今の世の中をちょっとずついい方向に変えていける、北星余市を出た子たちにはそんな可能性だってあると僕は信じています。
 僕の場合、前の会社でも『自分は北星余市の出なんだ』と繰り返してるうちに根っこがどんどん張ってきたから、NHKでも『北星余市のやり方でやってやる』ってなれる。今悩んでいるかもしれないですけど、逆にすごい根っこを育てている、いい時期なんじゃないかな。」

―金井くんのメッセージ、今悩んでいる人たちに早く届けたい。会報の紙面に載るのは10月です。
「その頃には、僕は福島ですね。」
―福島への異動は自分から希望していた?
「実は3年前に志望してたんです。東日本大震災の後、原発から約20キロの川内村で国から米作りを禁止された状況の中で、田んぼ1枚分だけ米を作った米農家のお父さんをずっと取材してきたことが、大きなきっかけですね。」

 2011年、事故が起きた原発から半径30キロ圏内は、国から米の作付けが禁止されました。そんな中で川内村は奇跡的に放射線量が低かったのですが、原発から同心円上にある他の地域と同様に作付け制限の対象となったのです。
 しかし、そのお父さんは「測ってみなけりゃわからないじゃないか」と、自主検査用に米を作りました。出荷するためではありません。それは村の灯を消さないためでした。安全な米を作ることができるとわかれば、避難している住民が、また村に戻って来れる。そのために国の制止を振り切って、あえてルール違反をしたのです。
 金井くんは、起きてしまったことに恨み節をぐずぐずと言い続けるのではなく、今できることを精一杯やるという、お父さんの姿に強く惹かれたと言います。


「福島は原発の廃炉や中間貯蔵施設など、先の長い難しい問題があります。一方で、米農家のお父さんのように、尊敬できる人が沢山いる。自分としては、そこに住む人たちがどんな想いで生きているのか、何に希望をみているのか、寄り添いたいという想いが強いですね。放っておけないですよ。自分のためにも、今の福島を伝えたい。逃げるわけにはいかない。それこそ、見て見ぬ振りをしたら北星余市の名折れだ。
 僕はこれまでもそういうスタンスでやってきたし、これからも同じです。」

―福島でもぜひ頑張ってくださいね。番組、楽しみにしてます。

 インタビューの翌月、福島へとたびだった金井くん。それから3年目の2018年3月8日、NHK福島制作による『ココに福ありfMAP』が放送開始となりました。「傷ついた福島を元気にしたい」という想いで、金井くんが1から立ち上げた新番組です。
 第1回のテーマは『田んぼより愛を込めて』。その中で“反骨の米農家”として取りあげられたのが、あの川内村のお父さんだったのです。番組は、あたり一面を黄金色に輝かせる田んぼを見ながら「生きててよかった」とつぶやくお父さんの言葉で締めくくられています。
 何年もの間取材し続けた成果を、またひとつ形にした金井くん。これからも、北星余市という軸足を地につけて、人に寄り添いながら、その時々の福島を伝え続けてくれることでしょう。
 

☆金井くん渾身の新番組HP紹介☆

ここにふくありロゴ

 番組立ち上げの際、全国に発信したいという金井くんの熱い想いからホームページも開設することになりました。ロゴをクリックして、アクセスしてみてください。
 このホームページを形作るために頑張ってくれたのが、北星余市で金井くんと同期だった木下尚久さん。また、番組のテーマでもある地図のデザインに深く関わったのが、同じ寮の一年先輩だった平明広さん。さらに7年後輩にあたる関由里亜さんのお父さんが経営する、福島市のめばえ幼稚園が、タイトル映像や声の出演で全面協力してくれたそうです。「北星余市同士のあうんの呼吸で、圧倒的に話が早く進みました。ひとりで番組を立ち上げ、ホームページまで作れたのは、実は北星余市人たちがいてくれたからなんですよ。」と語る金井くん。北星余市の底力を感じさせるエピソードですね。




最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
卒業生や在校生らのインタビューは、北星余市高校HPでも多数ご覧いただけます。

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